教育格差と大学無償化

大学無償化時代の奨学金制度の役割再定義:教育格差是正に向けた課題と展望

Tags: 大学無償化, 奨学金, 教育格差, 高等教育, 学生支援, 政策評価

はじめに

近年導入された高等教育の修学支援新制度、いわゆる「大学無償化」政策は、経済的理由による進学断念を防ぎ、教育機会の均等を促進することを目的としています。この政策は、特に低所得世帯にとって大学進学の経済的ハードルを下げる効果が期待される一方で、これまで教育費支援の主要な役割を担ってきた奨学金制度のあり方にも大きな変容を迫っています。本稿では、大学無償化政策導入後の奨学金制度が、教育格差是正においてどのような役割を担い、またどのような新たな課題に直面しているのかについて、専門的な視点から考察を進めます。

大学無償化政策導入前夜の奨学金制度

大学無償化政策導入以前の日本の奨学金制度は、主に日本学生支援機構(JASSO)による貸与型奨学金が中心であり、無利子または有利子の貸与が一般的でした。一部に給付型奨学金や授業料減免制度も存在しましたが、その規模や対象は限定的でした。

この時代の奨学金制度は、多くの学生にとって高等教育へのアクセスを可能にする重要な手段であったことは間違いありません。しかしながら、特に貸与型奨学金は卒業後の返還負担が生じるため、経済的に厳しい家庭出身の学生にとっては、借り入れに対する心理的な抵抗や、将来のキャリア選択への影響といった懸念が教育格差の一因となりうるという指摘もなされていました。多額の貸与奨学金が、卒業後の若年層の経済的自立やライフイベントに影響を与えるという問題も、社会的な論点として議論されていました。

大学無償化政策による奨学金制度の役割変化

2020年4月に開始された高等教育の修学支援新制度は、一定の要件(主に所得要件と学業要件)を満たす住民税非課税世帯およびそれに準ずる世帯の学生に対し、授業料・入学金の減免と給付型奨学金を組み合わせて支給するものです。これにより、対象となる学生は学費の大部分、あるいは全額の経済的負担が軽減されることになりました。

この政策の導入は、従来の奨学金制度、特に貸与型奨学金の役割を大きく変化させています。大学無償化の対象となる学生にとっては、学費相当分の支援が給付されるため、貸与型奨学金の必要性が低下します。これは、卒業後の返還負担を懸念して進学を躊躇していた層や、返還困難に陥るリスクを抱えていた層にとって、教育機会均等の観点からポジティブな影響をもたらすと考えられます。

一方で、奨学金制度全体で見ると、その役割は学費そのものの支援から、より多様なニーズへの対応へとシフトしつつあります。例えば、大学無償化の対象外となる所得層の学生に対する支援、大学無償化だけでは賄いきれない教科書代や生活費、課外活動費、留学費用など、学費以外の教育費負担への支援といった側面に、奨学金制度の新たな焦点が当たっています。また、大学独自の奨学金や地方自治体の奨学金など、公的な制度を補完する様々な奨学金の重要性も再認識されています。

教育格差是正における新たな課題

大学無償化政策が導入された後も、教育格差は様々な形で存在し続けています。そして、奨学金制度はこれらの新たな、あるいは形を変えた格差に対して、その役割を再定義し対応していく必要に迫られています。主な課題として、以下の点が挙げられます。

  1. 対象外学生への対応: 大学無償化の所得制限により支援対象とならないものの、経済的に困難を抱える世帯の学生に対する支援が依然として不十分であるという指摘があります。いわゆる「支援の谷間」にいる学生への対応策として、既存の貸与型奨学金の改善や、新たな支援スキームの構築が求められています。特に、中間所得層における教育費負担感の増大は看過できない問題です。

  2. 学費以外の費用負担と生活費支援: 大学無償化は学費(授業料・入学金)を主な対象としていますが、下宿費、通学費、教材費、PC等の購入費、実習費など、学費以外の教育関連費用も少なくありません。また、生活費の支援は給付型奨学金の一部に含まれますが、地域差や個別の状況に応じた十分な額であるかについては議論の余地があります。これらの学費以外の費用負担が、教育機会や学生生活における格差を生む可能性があります。

  3. 制度の複雑化と情報アクセス格差: 大学無償化制度に加え、既存の奨学金制度、大学独自の奨学金、地方自治体の奨学金など、利用可能な支援制度は多岐にわたります。これらの制度全体像が複雑になり、必要な情報にアクセスし、自身に合った制度を選択・申請するプロセス自体が、家庭の教育に関する情報収集能力やリテラシーの差によって教育格差を再生産する可能性があります。高等学校における進路指導や、大学における情報提供体制の役割がより重要になっています。

  4. 大学院進学や留学など次段階への支援: 大学無償化は学部段階を主な対象としており、大学院進学や卒業後のリカレント教育、あるいは学部段階での留学など、その後の学習機会への経済的支援は手薄になる可能性があります。高度化・国際化が進む社会において、次段階の教育機会へのアクセスにおける経済的ハードルが、新たな教育格差を生み出す懸念があります。

  5. 奨学金以外の学生支援との連携: 教育格差は経済的な側面に留まりません。学力差、学習習慣、非認知能力、文化資本といった非経済的な要因も大きく影響します。奨学金制度が真に教育格差是正に貢献するためには、学業成績不振者への学習支援、キャリア相談、メンタルヘルスケア、学生間の交流促進など、大学が提供する多様な学生支援プログラムと密接に連携し、学生の総合的な成長を支える視点が不可欠です。

今後の展望

大学無償化政策は、教育格差是正に向けた重要な一歩であることは間違いありません。しかしながら、それが教育格差を完全に解消するものではなく、むしろ課題の焦点が変化し、新たな側面が顕在化しつつあると理解すべきです。

今後の奨学金制度には、単に学費を補填するだけでなく、学生一人ひとりの多様なニーズに応じた柔軟な支援設計が求められます。これには、生活費支援の拡充、学費以外の必要経費への対応、大学院進学支援の強化などが含まれるでしょう。

また、制度の公平性・実効性を高めるためには、対象者判定における所得以外の指標(例:家族構成、居住地域、災害被災状況など)の検討や、申請手続きの簡素化、情報提供の一元化とアクセシビリティの向上が不可欠です。

さらに、大学無償化や奨学金といった経済的支援策と並行して、家庭環境や早期教育における教育格差の是正、高等学校段階でのきめ細やかな進路指導の強化、大学における質の高い多様な教育・学生支援プログラムの提供など、教育システム全体として教育格差に取り組む視点が極めて重要です。

奨学金制度は、大学無償化という新たな基盤の上に、教育格差是正という長期的な目標に向けて、その役割と機能を継続的に見直し、進化させていく必要があります。今後の政策議論においては、これらの課題を深く掘り下げ、エビデンスに基づいた効果的な支援策が検討されることが期待されます。

まとめ

大学無償化政策は、経済的側面からの教育格差是正に一定の効果をもたらす一方で、奨学金制度にその役割の再定義を促しています。学費支援の比重が低下したことにより、奨学金は学費以外の教育費や生活費支援、多様な学習ニーズへの対応といった新たな側面に焦点を移しつつあります。しかし、支援対象外学生の存在、学費以外の費用負担、制度の複雑性、次段階教育への支援不足など、教育格差是正に向けた新たな課題が顕在化しています。今後の奨学金制度は、これらの課題に対応するため、より柔軟で包括的な支援設計、制度の情報アクセシビリティ向上、そして大学や高等学校、他の教育支援プログラムとの連携強化が求められます。教育格差の根本的な解消には、経済的支援に留まらない、教育システム全体の構造的な改革と継続的な取り組みが不可欠であると言えるでしょう。