教育格差是正における大学無償化の成果評価:指標設定と長期効果測定の論点
はじめに
大学無償化政策は、経済的理由により大学進学を断念する層を減らし、教育機会の均等を促進することを目指しています。特に教育格差の是正は、本政策の重要な目的の一つとして掲げられています。しかし、政策が実際にどの程度この目的を達成しているのか、その成果を客観的に評価することは容易ではありません。単に進学率の上昇をもって成功とみなすことは適切でしょうか。教育格差の是正という観点からは、より多角的かつ長期的な視点での評価が不可欠となります。
本稿では、大学無償化政策の教育格差是正への貢献を評価する際に考慮すべき論点、特に適切な評価指標の設定と長期的な効果測定の課題に焦点を当てて議論を進めます。教育系シンクタンクの研究員や政策立案者といった専門家の視点から、信頼性の高いデータに基づいた評価のあり方を探求します。
教育格差是正という目的と評価の難しさ
「教育格差の是正」とは、具体的に何を指すのでしょうか。これは単に大学進学率における家庭の社会経済的背景(Socioeconomic Status: SES)による差異を縮小することだけを意味するものではありません。例えば、進学先の大学の質や学部選択の多様性、さらには卒業後の進路や所得、職業、社会的流動性といった長期的なアウトカムにおける格差の縮小も含まれるべきだと考えることができます。
大学無償化政策がこれらの複雑な側面にどのように影響を与えているかを評価するためには、政策導入前後での変化を追跡し、他の要因(景気変動、少子化、他の教育政策など)の影響を可能な限り排除した上で、政策の因果効果を特定する必要があります。これは、単年度の統計データだけでは困難であり、長期的なパネル調査や詳細なミクロデータ分析が求められます。
成果評価における主要な論点と指標
大学無償化政策の教育格差是正効果を評価する上で、どのような指標に注目すべきでしょうか。いくつかの主要な論点を挙げます。
1. 進学率の格差
最も直接的な指標は、SES別の大学進学率の変化です。無償化により、低SES層の大学進学率が向上し、高SES層との差が縮小しているかを確認します。しかし、これだけでは不十分です。どの層の進学率がどれだけ増加したのか、また、それは希望する進路への進学なのか、といった質的な側面も重要です。
2. 進学先の質の格差
大学無償化が特定の大学群への進学を促進する一方で、大学間の教育資源や質には差異が存在します。政策が、SESによって進学先の大学の質に新たな格差を生じさせたり、あるいは既存の格差を固定・拡大させたりする可能性はないでしょうか。特定の大学へのアクセスの公平性を評価するためには、大学群をいくつかのカテゴリーに分けて進学率を分析する必要があります。
3. 学部・学科選択の多様性
経済的制約が緩和されることで、学生が自身の興味や適性に基づいて学部・学科を選択できるようになる可能性があります。これまで学費が高い等の理由で選択肢から外していた分野(例えば、私立大学の特定の学部など)への進学が増加しているか、SESによる学部選択の偏りが変化しているか、といった視点からの評価も重要です。これは、将来のキャリアパスや所得格差にも影響しうる側面です。
4. 中退率・卒業率の格差
大学へのアクセスだけでなく、大学での学習を継続し卒業できるかどうかも重要な指標です。無償化によって経済的理由による中退が減少しているか、特に低SES層の卒業率が向上しているかを確認する必要があります。政策が単なる入口の公平性だけでなく、出口の公平性にも寄与しているかを評価します。
5. 卒業後の進路と所得格差
教育の最終的な成果は、卒業後の社会参加や経済的自立に現れます。大学無償化政策が、SESによる卒業後の就職先(正規雇用率、企業規模など)や初任給、長期的な所得といった側面での格差縮小に貢献しているかを評価することは、政策の真のインパクトを測る上で不可欠です。これは、政策導入から数年、あるいは10年といった長期にわたる追跡調査が必要となります。
6. 非大卒者との格差
大学無償化政策は、大学に進学しない、あるいはできない人々にとっては直接的なメリットがありません。政策が、大卒者と非大卒者の間の所得格差や雇用の安定性といった側面での格差を、意図せず拡大させる可能性も指摘されています。こうした政策の「外部効果」あるいは「非受益者への影響」についても、広い意味での社会的格差の観点から考慮すべきかもしれません。
長期的な効果測定と評価体制の課題
これらの指標を用いた効果測定には、いくつかの大きな課題が存在します。
第一に、長期的な追跡調査の必要性です。教育の効果、特に所得や社会的地位といったアウトカムへの影響は、卒業後数年あるいは数十年を経て顕在化することが多くあります。政策導入から継続的に対象者を追跡し、データを収集・分析する体制を構築する必要があります。
第二に、因果関係の特定です。大学無償化以外の要因が教育格差やその変化に影響を与えている可能性を排除し、政策の純粋な効果を分離することは統計的に高度な手法を要します。比較対象群の設定や、操作変数法、回帰不連続デザインなどの計量経済学的手法を用いた分析が求められます。
第三に、データの収集と連携です。高等教育機関のデータ、家計経済状況に関するデータ、卒業後の進路や所得に関するデータなど、複数のソースからのデータを連携させて分析する必要があります。個人のプライバシーに配慮しつつ、これらのデータを継続的かつ網羅的に収集・管理する仕組みが不可欠です。
第四に、評価体制自体の構築です。政策の評価は、その政策の継続や改善にとって不可欠なプロセスです。政府、大学、研究機関などが連携し、客観的かつ継続的な政策評価を実施するための専門的な組織やフレームワークの構築が求められます。評価結果を政策決定にフィードバックする仕組みも重要です。
国際的な視点と今後の展望
大学無償化あるいはそれに類する高等教育費支援政策は、多くの国で実施されています。これらの国々がどのように政策の効果を評価し、どのような課題に直面しているのかを学ぶことは、日本の政策評価を考える上で有益です。例えば、北欧諸国やドイツなど、大学教育が無償である国々における教育格差の現状や、所得連動型返還方式の奨学金制度を導入している国々(オーストラリア、ニュージーランド、英国など)の評価研究などが参考になるでしょう。
今後の展望として、大学無償化政策の教育格差是正効果をより正確に把握するためには、以下のような取り組みが考えられます。
- 政策対象者及び比較対象群を特定した長期パネル調査の実施。
- 高等教育機関のデータと公的統計(所得データなど)の匿名化・連結利用の促進。
- マイクロシミュレーションモデル等を用いた政策効果の事前・事後予測及び評価。
- 教育経済学、社会学、政策評価などの分野横断的な研究協力の強化。
- 政策評価結果を国民に分かりやすく示すためのアウトリーチ活動。
まとめ
大学無償化政策が教育格差をどの程度是正しているかを評価することは、政策の有効性を判断し、今後の教育政策を立案する上で極めて重要です。しかし、その評価は単なる進学率の分析に留まらず、進学先の質、学部選択、卒業後の進路、所得といった多角的かつ長期的な視点からのアプローチが求められます。
適切な評価指標の設定、長期的な追跡調査の実施、因果関係の特定、そしてデータの収集・連携といった課題を克服し、客観的で継続的な評価体制を構築することが今後の重要な論点となります。国内外の研究知見や事例を参考にしつつ、教育格差是正という崇高な目的に対する政策の真の効果を見極める努力が、今後も継続される必要があります。