教育格差是正に向けた大学無償化の経済的評価:費用対効果と社会的リターン
はじめに
大学無償化政策は、高等教育への経済的なアクセス障壁を取り除き、教育機会の均等化を目指す重要な政策手段の一つとして世界的に議論されています。特に、教育格差の是正という観点からは、低所得世帯の子どもたちが経済的な理由で大学進学を断念することを防ぐ効果が期待されています。本稿では、このような大学無償化政策が教育格差是正にもたらす影響を、経済学的な視点、すなわち費用対効果分析(Cost-Benefit Analysis: CBA)と社会的リターン(Social Return on Investment: SROI)の概念を用いて評価することの意義と課題について考察します。
政策の有効性を判断する際には、その実施にかかる費用と、それによって生み出される効果や便益を定量的に評価することが重要です。教育政策においても、単に機会の提供に留まらず、それが社会全体にもたらす長期的かつ広範な影響を捉えることが求められます。教育格差の是正が、個人のみならず社会全体にもたらす経済的・社会的なリターンを明確にすることは、政策の正当性を高め、資源配分の最適化を図る上で不可欠な分析枠組みであると言えます。
大学無償化政策の費用構造
大学無償化政策にかかる費用は多岐にわたります。まず直接的な費用として、授業料や入学金の減免・免除、給付型奨学金の支給など、学生への経済的支援にかかる公的支出が挙げられます。これは主に税金や国債によって賄われ、財政への直接的な負担となります。
しかし、費用はこれに留まりません。政策実施に伴う大学側の運営費増加(受け入れ学生数増加に伴う人件費、施設費など)、行政手続きにかかる費用(制度設計、申請受付、審査、モニタリングなど)も考慮に入れる必要があります。また、教育資源の再配分に伴う機会費用、例えば、他の教育段階や社会保障分野への投資機会の損失なども、広い意味での費用として捉えることが可能です。これらの費用を正確に算出し、政策効果との比較を行うことが、費用対効果分析の出発点となります。
教育格差是正による社会的リターン
教育格差が是正され、これまで経済的理由で高等教育へのアクセスが困難であった層が進学機会を得ることで、個人レベルおよび社会レベルで様々な便益が期待されます。これらは政策の「効果」または「社会的リターン」として評価されるべき要素です。
個人レベルでは、高等教育修了による所得水準の向上、雇用の安定化、健康増進、社会参加意識の高まりなどが挙げられます。所得向上は個人の生活水準を改善するだけでなく、税収増や社会保障費の削減にも繋がり得ます。
社会レベルでのリターンはより広範です。 * 経済成長と生産性向上: 高学歴者の増加は、労働力全体の質を高め、イノベーションを促進し、経済全体の生産性向上に貢献すると期待されます。 * 税収増加: 個人所得の向上に伴う所得税、消費税などの税収増が見込まれます。 * 社会保障費の削減: 健康状態の改善や安定した雇用による、医療費や失業給付などの社会保障関連支出の削減が期待できます。 * 社会的分断の緩和: 学歴と所得の連動性に基づく社会的な分断や階層固定化の緩和に寄与する可能性があります。これにより、社会全体の安定性が増し、治安改善なども含めた広範な社会的便益が生じる可能性が指摘されています。 * 市民参加の向上: 高等教育を受けた人々は、より積極的に社会や地域活動に参加する傾向があるとする研究結果も存在します。
これらの個人および社会レベルでの便益を定量的に評価し、費用と比較することで、政策の費用対効果や社会的リターンを算出することが試みられます。
費用対効果分析と社会的リターンの評価における課題
大学無償化政策による教育格差是正の効果を費用対効果や社会的リターンの観点から厳密に評価することは、いくつかの重要な課題を伴います。
- 因果関係の特定: 大学無償化によって生じた進学率の向上やその後の所得増加が、本当にその政策のみによって引き起こされたのか、他の要因(景気変動、教育環境の変化など)の影響を排除して特定することは容易ではありません。統計的な手法を用いた精緻な分析が必要です。
- 便益の貨幣価値換算: 高等教育による所得増加や税収増は比較的貨幣価値に換算しやすい項目ですが、健康増進、社会参加、社会的分断緩和といった非市場的な便益を定量化し、貨幣価値に換算することは非常に困難です。質的な評価や代替的な指標を用いる必要が生じます。
- 長期的な効果の評価: 教育の効果は、卒業後数十年にわたって持続的に現れるものです。これらの長期的な効果を予測し、現在価値に割り引いて評価するには、適切な割引率の設定など専門的な知見が求められます。また、将来の社会経済状況を正確に予測することは不可能です。
- 対象者以外への影響: 大学無償化政策は、直接の対象者である低所得世帯の学生だけでなく、他の世帯や高等教育機関、さらには社会全体に影響を及ぼします。これらの間接的な影響や波及効果、予期せぬ結果(unintended consequences)も考慮に入れる必要があります。例えば、大学への志願者増加に伴う大学の質の維持・向上へのプレッシャーや、政策対象外の層からの不満などが考えられます。
- データとモデリング: 精緻な費用対効果分析やSROI評価には、政策介入群と対照群の比較を可能にする longitudinal study(縦断研究)や、経済全体の変化を捉える general equilibrium model(一般均衡モデル)など、高度なデータとモデリング技術が必要です。十分なデータが利用可能でない場合や、モデルの前提が現実と乖離する場合には、分析結果の信頼性が低下する可能性があります。
これらの課題を踏まえると、大学無償化政策の経済的評価は、あくまで一つの側面からの分析であり、政策の価値を判断する上では、公正性、機会の平等、人権保障といった経済的評価だけでは捉えきれない価値基準も不可欠であると言えます。
まとめと今後の展望
大学無償化政策が教育格差是正に与える影響を、費用対効果や社会的リターンの観点から分析することは、政策の経済的な効率性や持続可能性を評価する上で重要なアプローチです。政策にかかる公的費用と、それによって個人および社会にもたらされる多様な便益を比較検討することで、限られた社会資源の最適な配分に向けた示唆を得ることができます。
しかしながら、教育政策の経済的評価には、効果測定の困難性、便益の貨幣価値換算、長期効果の予測、間接的影響の考慮など、多くの技術的・理論的な課題が存在します。これらの課題を克服し、より信頼性の高い分析を行うためには、精緻なデータ収集、高度な分析手法の開発、そして経済学以外の分野(社会学、教育学、心理学など)との学際的な連携が不可欠です。
今後の政策議論においては、単に政策の費用対効果を追求するだけでなく、教育格差是正という政策目的が持つ本質的な社会的・倫理的な価値を改めて認識し、経済的評価の結果をその文脈の中で適切に位置づけることが重要です。また、政策実施後の継続的なモニタリングと評価を通じて、政策の実効性を検証し、必要に応じて改善を図っていくプロセスが求められます。
教育格差の解消は、個人の可能性を最大限に引き出すとともに、社会全体の活力と安定を維持するために不可欠な課題です。大学無償化政策をはじめとする教育支援策が、真に教育格差の是正に貢献し、持続可能な社会の実現に寄与するためには、多角的かつ長期的な視点からの評価と議論が不可欠であると言えるでしょう。